第45回 哲学カフェ

分かるとは

2019年10月12日(土)

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カフェ・サンラファエルさまの入り口
カフェ・サンラファエルさま

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日 時: 2019年10月12日(土) 13:00~15:00

場 所: カフェ・サンラファエル

    (名古屋市西区名駅2-11-8 ファーストビル大樹1階)

     地下鉄「名古屋駅」1番出口より北へ徒歩5分

テーマ: 分かるとは

進 行: 寺井哲治

参加費: 飲食代実費(440円~)

定 員: 20名

申 込: メールにて受付中

     staff☆nagotetsu.sakura.ne.jp(☆を@に変換してください。)

定員に達しましたら締め切りますので、なるべく事前にお申し込みください。

お申込みがない方も席に余裕がある範囲で先着順でお受けします。お早めにいらしてください。

 

《ご案内》

【分かるとは】

知っていることと、分かっていることは同じでしょうか。

1+1=2は知っていることですか?分かっていることですか?

分かっているなら、早く宿題をやりなさいと親に怒られた経験のある

進行役と一緒に分かるについて考えてみませんか。

 
初めての方も大歓迎です。ご参加お待ちしております。
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開催報告

 

哲学カフェレポート 第45回 哲学カフェ わかるとは 

以下にその対話の一部を紹介します。

 

・『わかる』の次に『わからない』が出てくるので、『完全にわかる』がやってこない。

・数学の答えがわかるのと美術のわかるは違う。

・『わかる』とはちいさなピースに分けること。

・今までモヤモヤしていたものが、明瞭になること、そして快感となる。

・電卓は答えを出すがわかっていない。電卓も脳もものである。

 両者に違いはなく、人間もわかっていない。

  ⇒世界にわかっているという存在はない。

・知っているということとわかっていることは違う。

 わかっているということは、体験から本質を理解すること。

・わかったときに自分の中に、何か変化が起きている。

 しかし、それが言語化できていない。

 (トリエンナーレではメンソールで涙を流させるというアート体験をした。)

・モノに対して、どのように見ればよかったかがわかるようになった。

 それで自分のものとして、認識ができるようになった。

2×3=6という結果を聞いた時、この回答をした人をわかっていると感じる。

 でも、計算過程(2+2+2=6でもよい。)が人によって異なるので、本当にわかるとは判断できないかもしれない。

 6という結果は正解である。

・分数の割り算はひっくり返すということを機械的にやっている。

わかったとは言えないのではないか。

・答えはあっているが、手続きは間違っている。

 結果は間違っているが、心が動いた。

 間違っていてもわかると思うと心が動く。

・わかるというものには、真実の系列とそれ以外のものがあるのではないか。

・『わかる』とは『わからない』ものを切り捨てること。

 ※1+1=2で、1は何かという問題を切り捨てる。

  1(真実)ということを考えてはいけない。

  ここまでわかればいいやというあきらめ、見切り

・明瞭気持ちが動いている。

・この椅子が好きだ(『好きだ』がわかる。『構造』がわかる。)は受取側の探求心

・1+1=2は十進法の世界。なぜ、この世界は十進法なのか?

 指が十本ない生物には理解できない。

・愛の反対は無関心。愛はわかろうとすること。

 であれば、わからないと無関心は同義ではないか?

・わかるというのは、自分の中の変化(内部変化)

 ⇒相手にあなたのことが分かったと伝えても、完全にはわからない。

・『他人の気持ちがわかる』と『探していた場所をみつけた』も自分の中の

 わかったという喜びのシステムとは同じ。

 でも、その結果が正解かどうかは別である。

・『わかる』には順番(発見・整合)がある。

 知ること。わかること。何に対して喜ぶかどうかは人によって異なる。

・理知的なこと、感動することにも『わかる』をつかう。

・『自転車に乗っている人は時間がたっても乗ることができる。』

  ⇒『わかる』と『感覚』が同じになっている。

 『折り紙の折り方は忘れる。』

  名人は極意を知っているから忘れないかもしれない。

・『話が分かる人に相談をすれば、モノゴトが進む』

・『わかる』には他人が必要なのか?

・ヘレンケラーは水をかけてもらって、『WATER』を手に書いてもらって、それを理解した。

・人と人が分かり合えるという時の『わかる』はもともと二人の間に『わかる種』がある。

・『映画 エニグマ』では暗号を解読するマシンを作った。解読の仕組みの全体をわかったチーフだけでは、マシンはできなかった。仲間(他者)の発見(わかる)で、それを叶えることができた。

・『見る人』ではなく、モノからのベクトルで自分の理解が進む。

・赤ちゃんは、日本語がわかるようになる。(なぜ?)

 ヘレンケラーは幼いころ、目がみえる期間があった。

 その時に水遊びをした経験があった。(わかるの種)

・『モノがわかること』と『体系がわかること』がある。

 同じ枠組みの中だとしても、どの部分(体系)を理解するかが重要

・親に心配をされたとき、親の気持ちをわかるけど、納得はしていない。

 ⇒何を大事にしているか?

・ネグレクトをされた子は、食事さえも拒否されることもある。

 つまり、食欲という本能を拒否されると、その行為自体を理解できなくなる。

 本能を要求することが恐怖になるので、飢餓を認識できなくなる。

・赤ちゃんは初めは何もわからない。環境によって、『わかる』を獲得する。

・『わかるという状態が正常、わからない状態がおかしい』ということ自体がおかしい。

 わかるということは、自分の納得する部分に取り入れるため、切り捨てる部分がある。

 むしろ、『わからない』という状態の方が正しいのではないか?

 

 

                         (作成: なごテツ世話人 羽根田治、寺井哲治

コメント: 2
  • #2

    B & not B面 (月曜日, 16 12月 2019 14:22)

    https://youtu.be/HffNe4AhMgw
    「カメがアキレスに言ったこと」
    「分かるとは」に関するパラドックスのお話です。
    原作は「不思議の国のアリス」のルイス・キャロル。
    このパラドックスへのご意見を、またの機会にでも聞いてみたいです。

  • #1

    Mn3 (土曜日, 16 11月 2019 15:34)

    「わからない」という言葉がある。
    『あの人は、ホントわからんわ』という時は『あのひと=おかしい、ヘンだ』と非難するときに使ったりする。
    『物理はホントわからんわ』という時、『物理=おかしい、ヘンだ』というよりは『物理学=難しい、難解だ』という意味だと受け取って良いだろう。
    物理学で最も大切で、それゆえ最もキホンとなる事柄は教科書でサラッと言葉を惜しむかのように記述されている。
    記述されていればまだ良いほうで、『Aという事象⇒(最も大切で基礎となる考え)⇒Bという現象となる』、という記述は、しばしば次のように書かれている。
    Aという事象⇒よって当然Bとなる。
    多くの人は、その『当然』が何故なのかが理解できない。
    もちろん私もだ。
    実際『当然』という言葉は記述されてるわけじゃない。
    『Aという条件下ではBとなる』というカンジでのたまわれる。
    すると私たちは「何故だぁ~?」と頭を抱えるわけだ。
    この「なぜ?」をわかるように説明してくれなければ次へ進めない。
    しかしこの「なぜ」には何ページにも渡る説明が妥当なところだが、なかなか記述がされていない。
    すると我々に残された道はAを見たらB(この場合Bはわけのわからない長い数式であることも多い)とパブロフの犬になるよう、ひたすら暗記をしてやり過ごす。
    これがとてつもない苦痛であることは物理を学んだor学ぼうとした人なら分かってくれるだろう。
    これが物理が難しい、「わからない」の殆どといっても過言ではないだろう。
    テクストを読むときは行間を読め!とどこかで聞いたことはあるだろうが、物理学では普通なかなかそれは出来ない。
    相手が人間ならともかく事象Aの気持ちなど僕らには想像しようがない。
    サン=テグジュペリの言葉が浮かんでくる
    『本当に大切なことは目に見えないんだ』
    しかしそれを目に見えるようにしないことには物理学は進まない。
    どこにも書いてないことが分かるひとは、やはり頭のできが僕なぞとは違うんだろうなぁ~と心の叫び。
    本当に理解した人と驚異的な暗記力をもった人とを試験は峻別しない。
    業績がそれを分かつんだろうけど、天才秀才には凡人向けの教科書は書けないようだし……。
    僕の言いたいこと、分かりますか?