第30回 哲学カフェ

表現するとは?

2018年7月14日(土)

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カフェ・サンラファエルさまの入り口
カフェ・サンラファエルさま

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日 時: 2018年7月14日(土) 13:00~15:00

場 所: カフェ・サンラファエル

    (名古屋市西区名駅2-11-8 ファーストビル大樹1階)

     地下鉄「名古屋駅」1番出口より北へ徒歩5分

テーマ: 表現するとは?

進 行: 荒井豊

参加費: 飲食代実費(440円~)

定 員: 13名

申 込: キャンセル待ち受付中

     staff☆nagotetsu.sakura.ne.jp(☆を@に変換してください。) 

 (定員に達しましたら締め切りますので、なるべく事前にお申し込みください。

お申込みがない方も席に余裕がある範囲で先着順でお受けします。お早めにいらしてください。)

 

《ご案内》

 「表現する」を考える。

表現するってどういうことだろう。イラスト、絵画、小説、ダンスなど、表現の手段は多様で、最近は動画投稿サイト等でも 簡単に自分の作品を公開できる環境も整っています。

方法はいろいろありますが、私達は、何を求めて何かを表現するのでしょうか。

また、表現するといのはどういうことなのでしょうか?

初めての方でも歓迎です。「表現する」について考える時間を持ってみませんか。

 

―開催報告―

なごテツ 第30回 哲学カフェ

《表現するとは?》

日時: 2018年7月14日(土) 13:0015:00

会場: カフェ・サンラファエル(名古屋駅東口)

進行役: 荒井豊 

 

以下に発言内容の一部を紹介します。

 

 今回のテーマは「表現するとは?」です。

当日は外を歩くだけで汗をかくような暑さでしたが、たくさんの方々が集まって くださいました。

どんな対話が交わされたのか、その一部をご紹介します。

 

・今回の紹介文では、私達が表現するとなっているが、

 「表現」自体が先にあって私達を媒介として現れてきているということではないのか。

・伝えるということと表現することは別で、伝えたいことがあり、伝えるための工夫がある時  それを「表現」という。

・誰に向かって表現するのか?

・自分の中の心象風景が表に出る。

 意図せずあふれ出てしまうものが人の心を打つ。  

 相手の中でも響きあって湧いてくるのが表現。

・無人島にいても、人は表現してしまうだろう

・「伝えるため」「誰かのため」でなく、「自分のため」に表現することもある。

・表現する、は英語で「Express」。語源は「Espresso」。

 すなわち外からの  「圧力」がかからないと生まれないものが「表現」では?

・「表現されるもの」というのは、いったん決まったらどう表現するかでトライ&エラーがある。

・例えば「怒り」の表現は「表現」なのか、「表現したい内容」なのか。

・表現するもの、されるもの、の区別はつかないものなのか?

・「表現」には「リアルタイムで表現されるもの(音楽、演劇、ダンス等)」と、

 「作られたもの(小説、絵画等)」2種類ある。

・現代はどちらかというと、リアルタイムの表現優位?

・愛の表現では。非言語(動作等)で伝えるたことは「気のせい」にされたりするけど  

 「言葉」で行ったことはごまかせない。言語には圧倒的な力がある。

・言語で相手に過不足なく伝えるためには技術がいる。

 受け取り手も、言葉尻をとらえるだけでなく行間を読む力がいる。

・現代アートという表現は、人によって受け取り方がちがう。両者が感受性を磨く必要がある。

・「愛してる」という妻の問いかけに「ばかやろう」と夫が答える時、そこに愛があると感じるのは  

 あとから付随して作られた意味ではないか?

・日本人は言わなくても伝わる文化(以心伝心)。西洋は言わないと伝わらない。

・愛の表現では、自分と相手が同じ土俵に立つことが重要?

 表現の中身よりも  それがやり取りされる空間、環境が大事?

・相手の人との関係をしっかり作るということまで考えて表現を作るのか、

 自分はこうだ!  と伝えるのか?その人のレベルによってちがう。

・「愛しています」は美しい言葉だけれど、詐欺師が使うと意味が違う。言葉は使う人次第。

・アーティスト自身は価値がわかっていないけど受け取り手がわかることもある?  

 受け取り手によっても違う。1回だけじゃなく、2回目3回目でわかることも。

・自然と湧き上がってくるものがある。

 想像できることをつなぎ合わせることで共通の意味が生まれることも。 

・SNSは表現するツールというより、出来事を伝えるツール。

・なぜ人は表現したい?

 せざるを得ないのはなぜ?

 生きる意味を残したい?

 共感したい  つながりたい?

 生きるために表現してる?

・稼ぐことが目的で小説家になった人のエンターテイメント小説は表現か?

・自己満足的にするのも表現。受け手のため、自分のため、表現には2パターンある。

・「表現」が自分を殺すこともある?命を削って表現する場合と、命をふくらませる表現と2パターンある?  

 (短命な芸術家、長命な芸術家、2種類いる気がする)

・表現の受け取り方として「本当の受け取り方」というのはない。それぞれがそれぞれの受け取り方をする。

・言われたとおりにするのは「表現」じゃない?

・「伝える」は、自分の思うシーンを相手が同じように受け取ってくれること。

 「表現する」は、受け取るためにワンクッション要る。

 経験値によってもちがうから。 伝えたかったことがあとからわかることも。

・日本文化は「表現しない」文化。俳句など。

・余白や行間を読むのにも人間的成長が必要かも。

・表現することは、受け取り手との共同作業。

・自分のためと他人のための表現がある。

・問われたから出てくるものがある。

・自己表現は人間には必要なこと。自分の意志が明確になる。 以上

・みなさん聴き上手で心地よかった ここで時間となりました。

終わってみればあっという間ですが、参加された方々にとって楽しい時間となったようです。

 

(作成: なごテツ世話人 水野生惠)

コメント: 2
  • #2

    Mn3 (日曜日, 22 7月 2018 12:58)

    人間の眼は動いているものしか見えない
    と聞いたことがある
    「明らかに静止しているものは見えないのか?」
    と疑問に思うだろう。
    実は人間の眼は微妙に震えていて、静止している物体とは
    相対的に動いていることになり
    見えている、ということらしい。
    なんでこんなことを思い出したかというと
    次のケースである。
    人間の耳は物音を拾う為にある
    では自然界ではあり得ない人工的な無音状態に晒されたらどうなるか?
    時間が経つと幻聴を聞くという。
    この時の音は誰が表現したものなのか?
    幻聴だから当人に違いないのだろうが
    当人の意思で表現している訳ではない。
    ちょうど夜に見る夢の映像は個人の脳が現出させたものだろうが
    当人は自分の表現だという意識はない、
    ということに似ているのだろうか。
    失礼な言い方になるかもしれないが
    音を失った耳の不自由な方は無音状態の中
    幻聴を生じさせているとも思われないが。
    最初の話に戻ると
    人間は誰かが表現したものを解釈するようにできている。
    周りに人がいないと自然の風、太陽、空、雲、川、海、蝉の声などの昆虫の出す音、
    などが何かを表現しているのではないか、
    と思い、自然の詩などが生まれたのだろうかと思ってしまう。
    自然を歌った詩は誰の表現なのか?
    自然が表現したものを人が解釈し直し表したもの、だろうか?
    確かに自然と人の共同作業だと言える。
    自然は巨大なテクストで、
    もう一方の道から解釈したものが自然科学なのだろう。

  • #1

    ヤスミン (月曜日, 16 7月 2018 19:05)

    土曜日もありがとうございました^^個人的にとても興味深いテーマでしたので、あとからもいろいろ「表現」について思いめぐらしています。

    「あえて言わないこと」や「余白」を大切にする日本文化的表現についても話題が出ましたが、
    「古池や蛙飛び込む水の音」という俳句は「静けさ」を表すために、「かえるが一匹ぽちゃんと飛び込む小さな音」をイメージさせているわけですよね。

    それが面白いなと思って、哲カフェ後にも話したりしていましたが、
    他にも、「閑さ(しずかさ)や岩にしみ入る蝉の声」という俳句でも、「蝉の声」が「しずかさ」を表すために用いられているし、
    後から思い出したのは、「咳をしてもひとり」という尾崎放哉という人の俳句。
    これもまた「咳」によって「しんとした孤独」という状態に気づいたことを表している。。。

    「静けさ」を表現するためには、あえてその静けさを破るもの(「蛙が池に飛び込む音」や「蝉の声」や「咳」)が必要。。。?

    と考えて思ったのは、「静けさ」とは「調和」している状態でもあると思うので、
    「調和している状態」に気づくため(表現するため)にも、その調和を乱す何かが必要なのかな?と。

    例えば真っ白な壁が目の前にあったとして、それだけを見ていたら「なにもない」みたいに見えるけれど、そこに一匹の蠅が止まったら「あ、白い壁だ」と意識できる。それは「白い壁」という調和が乱されたから。

    【調和していることを知るためには、それを乱す何か(不調和)が現れる必要がある。だから「調和」という状態だけがある時、人はそれを意識できない】
    byヤスミン・笑

    「表現」のことともつながるけれど、「静けさ」も「孤独」も「白さ」も、その状態を表現する(伝える)ためには、あえてその状態を少しばかり損なう状況を必要とする。。。

    ・・・また、光を表現するには闇が必要、みたいなことでもあるし、「あたりまえのありがたさ」に気づくには、それがあたりまえでなくなる状況が必要だったりもする。。。
    平和であることに気づくにも、少しばかりの争いが必要なのでしょうか。
    戦争ほど大きな不調和が現れないと「平和」の大切さに気づけないのはざんねんなことかもしれません。

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