■ 日 時: 2016年10月8日(土) 13:00~15:00
場 所: カフェ・サンラファエル
(名古屋市西区名駅2-11-8 ファーストビル大樹1階)
テーマ: 運も実力のうち、と言えるか?
進 行: 奥田太郎
参加費: 飲食代実費(440円~)
定 員: 13名
申 込: なるべく事前にお申込みください。
(定員に達し次第、締め切ります。お申込みがない方は席に余裕がある範囲で先着順でお受けします。)
主 催: なごテツ
共 催: カフェフィロ
備 考: ① 100円程度のご寄付をお願いしています。(強制ではありません。)
② 写真撮影と対話の録音をさせて頂いております。NGの方はお申し出ください。
《ご案内》
「運も実力のうち」という慣用句があります。オリンピックの試合当日、対戦相手が怪我をして不戦勝で金メダルを獲得した場合、それはその選手の実力なのでしょうか。大金持ちの家に生まれることは、その人の実力なのでしょうか。運は、私たちの生活のいたるところに大きな影響を与えています。今回は、運と実力の関係についてみなさんと考えてみたいと思います。
初めての方も歓迎です。どうぞお気軽にご参加ください。
―開催報告―
なごテツ 第8回 哲学カフェ 運も実力のうち、と言えるか?
日時: 2016年10月8日(土) 13:00~15:00
会場: カフェ・サンラファエル(名古屋駅東口)
進行役: 奥田太郎 参加者: 16名
さて、今日は連休の初日ですが、多くの参加者に集っていただきました。<<運も実力のうち、と言えるか?>>です。誰しも一度は思ったことがあるのではないでしょうか。心惹かれるテーマです。
まず最初の発言は、実力も含めて運のうちなのではないかとのこと。つまり実力と私達が言っているものは実はないんではないかということです。つまり、すでに決まってる結果に向かってすべて用意されているなかでそうなっているだけなのではという発言です。
それに続いての発言は、運と実力の定義をしないと話ができないのではないか、運とはコントロールできないもので、実力とはある事柄を任せたら実現してくれるという再現性があること、つまりコントロールできるといえる。このコントロールできない運とコントロールできる実力という2つの言葉が並んでいるので議論が難しく見えるのだが、ここをさまざまな条件を考えることで運と実力の関係を検討できるのではいかとの発言でした。
以下、記憶に残った発言を簡単に記載していきます。
今日も、さまざまな観点から意見が交わされて、話は尽きないのですが、ここで時間となりました。
(作成: なごテツ世話人 荒井豊)
今回は、奥田太郎さんを進行役に迎え、参加者の皆様からのとても多くの示唆に富む発言をいただきました。
運や実力だけにとどまらず、自由意志についてもかなり突っ込んだ発言が交わされましたし、個人的には運と確率を同じようにとらえてもよいものかという気づきも得られ、とても充実した回となりました。
とても多岐に分かる観点から、思索を深めることができましたことに、喜びを感じております。
進行役の奥田さん、そしてご参加いただいた皆様に心より感謝申し上げます。
また、カフェ・サンラファエルさんには、このようなかけがいのない場をいつも快く提供していただいています。心からお礼申し上げます。
皆様には、今後ともなごテツの活動にご支援・ご協力を賜りますようお願い申し上げます。
(作成: なごテツ世話人代表 井下賢一)
[ご説明] 哲学カフェでのやりとりを多くの皆さまと共有する場として開設します。
イベント終了後2週間程度を目安に、参加者の皆さまからのご投稿を募集します。
当日の感想や、後で気づいたことなどを気軽にお寄せください。
参加者同士のさらなる対話の場としてもご活用ください。
[ご注意] 「ホームページ」欄は、ご記入なしで構いません。
「名前」は匿名や変名でも構いません。(後で変更はできませんので、ご注意ください!)
ご投稿はなごテツが発行および許諾した印刷物や電子媒体で複製・転載する場合があります。
あらかじめ、ご了承の上、ご投稿をお願いします。
イベント終了後、約2週間が経過しましたので、ご投稿の受け付けを終了いたしました。
今回も多数のご投稿をいただき、大変ありがとうございました。
からす (日曜日, 09 10月 2016 19:04)
運も実力のうち、と言えるか?
話の中で何度も出てきた内容に
「お金持ちの家に生まれたことは本人の実力か?」
出るたびにモヤモヤと通過していったのですが
はたしてお金持ちに生まれた環境は必ずしも幸運といえるのか?
恵まれない環境ではないが決めつけるのは暴力的ともいえる。
日本で生まれたことはそれだけでお金持ちに生まれたと解釈することは
十分可能だとおもいますが自覚している人は少ない。
この人数が無防備に暮らせれる環境は人類史上になかったことであり
もしかすると失われればこの先、存在しない環境かもしれない。
巨人の肩に乗っているから見える光景を自分の実力と考えることは
とても魅力的であり疑いすら抱けないでいることがあまりに多い。
書けば書くほど自分が苦しくなる内容なのでこのあたりで・・・。
Mn3 (日曜日, 09 10月 2016 23:41)
日本で今、底辺の生活をしている人も、昔々国を治めていた天帝、将軍の費やしたエネルギーの何百倍、何千倍のエネルギーを使って生きている。だからといって急に「そうかぁ、俺は絶対的に貧しいわけじゃないんだぁ」と納得するかというとそんなことはない。
たとえ1億円が手に入ったとしても、まわりの人が皆んな年収1000億だったら、そんなに嬉しくもない。
その人が不幸と感じるのは、まわりと比べてだ。
詳しいことは解んないが、「まわりはリア充だらけだ。それに比べ俺はブサイクだ。モテない。非正規だし。」という感じで秋葉原に於いて、車で人の中に突っ込んでいって大量殺傷を実行したK君。記憶に新しい。
ヒトはあまりにも非力で、牙も高速の脚力もない。集団性の動物となり、言葉を話し、文字も使う。これにより、他の生き物を遥かに凌駕する文化、文明を持ち、地球を破壊できるほどのちからさえ手にした。
これは諸刃の剣だった。皆んな社会生活を享受しているが、どうしてもまわりと自分を比べ、「俺は貧しいし、惨めだ」と自死を選ぶものもいる。
ならば皆んな同じ給料ならば不幸は無くなる、と社会主義国を建設する試みも、ヨーロッパにおいて失敗に終わった。どんなに政権が規制しても外国(資本主義国)の情報は入ってくるから。また高級官僚の存在も。
論理的には世界中が共産主義なら比べることがなくなる、という狂気も潰えた。
人間は集団生活をする生き物であることは覆せない。そうするとまわりの人と自分を比べてしまう。一体この種の不幸はどうすればいいのか。「31歳。フリーター。希望は戦争。」と書き込んだ人に対しては、どんな言葉が残されているのか。
右も左も、ポストモダンも、何も解決しやしない。皆んな希望を見つけようと真剣なのに。いや、真面目に考えるから悲劇(喜劇?)も起こる。
―― 誰よりも民衆を愛した君は、誰よりも民衆を軽蔑した君だ――
こんなアフォリズムを出したからといって何も解決しないのは分かっているのだが。
からす (月曜日, 10 10月 2016 10:50)
私は今の生活は幸運の上に成り立っていると思う。
実力や努力で手に入れた部分もあるとは思っている。
不運や実力や努力が足りなかったことも多々ある。
構成する要素はたくさんあると思われるが
怠惰な誘惑に負けて選択してしてしまった時間をたくさん過ごしている。
これは不運ではなく残念ながら実力だと認識している。
過去のことに「もし~だったら」と思うことは不毛である。
しかしその反省を次に生かせないでいることからは逃げれない。
人生の中でチャンスは何度も巡ってくる。
そして巡ってきたチャンスをつかむことができないと
幸運は指の間から滑り落ちていく。
その感触は人を狂わせるのに十分な傷を残す。
自分には運がなかったとするのか実力がなかったと思うのか。
それが運命だったと思うのも自由だと思う。
すっぱい葡萄だったと思うのも自由だと思う。
人のせいにしたり環境に原因を求めることもできる。
どうすれば良いのか?
それは哲学カフェでは聞くものではないと思う。
ともに考える場だと思っています。
私なら考えることは止めて行動します。
運命だったかどうかは後から考えても間に合いますから。
Mn3 (月曜日, 10 10月 2016 19:41)
法律は社会秩序維持のための規範、しきたりである。日本では累進課税でどんな資産家もだいたい3代で庶民になるとのことでした。本人の努力によらない親の資産は実力ではない。実力ではないものは公平という観点からは正義に背くもの。よって褒められたものではない、との通奏低音が感じられます。
しかし私有財産は保護されるべきもの。誰に譲渡しようが当人の自由。それが親族であれば情から自然というもの。よって財産の相続人は親族と法律で規定されている。これは累進課税の趣旨と矛盾しないのだろうか。
と、ここまで書き込んで累進課税をググったところ、その趣旨は封建化の阻止のようです。一方の相続が親族になっているのはよく分かりませんでした。
ミラー (月曜日, 10 10月 2016 23:27)
魚の眼には、反射板というものが備わっていて光を受けるだけでなく外に反射させているそうです、其の後、陸に上がった生物ー魚ほどではないにしろフクロウ、ネコタヌキ、目が光りますよね。
このように、時代とともに少しずつ失われて行った能力ー第六感なんていわれたりしますがーそんな能力が実はまだ少し残っていて、ここぞという時は知らず知らず、運というものを引き寄せるように自分で仕組んでいる!行動を選択している!
そんなこともあるんじゃないかなと思います。
運も正に実力!
全てそうだとは思いませんが、、、
Mn3 (水曜日, 12 10月 2016 23:50)
皆保険というものがあります。日本のが、それです。病気になるのは運が悪かった、と見なせば、ごく自然な制度です。たまたま病気になった人に皆の保険料で負担する。運が悪かっただけなのですから。
一方欧米のは個人的保険。病気になるのは個人の生活習慣のせい。ならば私的保険が当然となる。
病気に対する考えが保険に反映してるのか、保険制度が病気に対する考えをつくっているのか?
* * * * * *
今回のカフェでは「運も実力のうち」という意見が多数を占めていたようですが、「無冠の帝王」という表現があります。実力はあるのですが特別な賞などをもらっていない人。ボクシングなどで使われる言葉だそうです。
例えばとても素晴らしいバイオリニスト。コンクールでの受賞が必須でしょうか?偉そうな事を書き込んでしまいましたが、私もレッテルを貼ったりして判断しがちです。でも受賞するのは大会当日の運不運もあるでしょう。或いは大会そのものに出場しようとしない人、運を試そうとしない人なのでしょうか?
ノーベル文学賞をとった人とそうでない人の芸術性というのはそんなに関係があるもんでしょうか?でもあれは運がとてもコミットする気がします。賞は商業ベースで決まることが多いのですが、ノーベル賞は多分に政治的です。
実力と運、考えさせられます。
からす (金曜日, 14 10月 2016 14:32)
オリンピックの試合当日
対戦相手が怪我をして不戦勝で金メダルを獲得した場合
目標が金メダルの取得になるのであれば幸運であり
実力といえるのかと思われます。
でもこれは幸運といえるのえしょうか?
決勝まで進めているのですから実力のある選手のはずです。
しかし(不戦勝の)金メダリストという名誉とは言い難い
どちらかというと不名誉な地位が待っているのでしょう。
本来ならば勝っても負けても称えられたはず
名誉を受けるチャンス事態を奪われたとすれば
とても不運な出来事といえるのかもしれない。