■ 日 時: 2016年8月6日(土) 13:00~15:00 ※第1土曜日です!
場 所: カフェ・サンラファエル
(名古屋市西区名駅2-11-8 ファーストビル大樹1階)
テーマ: よいテーマとは?
進 行: 井下賢一
参加費: 飲食代実費(440円~)
定 員: 13名
申 込: なるべく事前にお申込みください。
(定員に達し次第、締め切ります。お申込みがない方は席に余裕がある範囲で先着順でお受けします。)
申込先: staff☆nagotetsu.sakura.ne.jp (☆を@に変換してください。)
主 催: なごテツ
共 催: カフェフィロ
備 考: ① 100円程度のご寄付をお願いしています。(強制ではありません。)
② 写真撮影と対話の録音をさせて頂いております。NGの方はお申し出ください。
《ご案内》
哲学カフェではさまざまなテーマが話し合われます。その中では、対話がとても深まり、皆が満足できるときもあれば、そうでないときもあります。どうしてなのでしょう。テーマによるものなのでしょうか。もしテーマによるのであれば、どのようなテーマがよいのでしょうか。
今回は、テーマを通して哲学カフェについて考えていきます。
哲学カフェに関心がある方でしたら、どなたでも歓迎です。どうぞお気軽にご参加ください。
―開催報告―
なごテツ 第5回 哲学カフェを考える哲学カフェ よいテーマとは?
日時: 2016年8月6日(土) 13:00~15:00
会場: カフェ・サンラファエル(名古屋駅東口)
進行役: 井下賢一 参加者: 11名
今回は、以前から開催のタイミングを計っていた<哲学カフェを考える哲学カフェ>。期待と不安に満ちたスタートとなりました。
進行役のアナウンス後、最初に「よいテーマとは、答えが1つではなく、いくつもの答えが出せること。参加者で内容を共有できること。持ち寄った考えが参加するうちに変わっていく余地があること。」と、まずはスムーズに3つの要素で示されましたが、早速「なにが良い哲学カフェなのかを決めなければ、良いテーマを考えることはできないのではないか?」と、哲学カフェらしく定義を求める発言がありましたが、テーマを通じて≪よい哲学カフェとはなにか≫も合わせて考えていくことになりました。
その後、よくないテーマとして見方から「参加者が発言をしたくないようなテーマは良くないテーマなのではないか?」、「身体的なことでコンプレックスを持っていることを、ファッションとして楽しく話が進んでいくと共感することができなかった」などが示されました。
それを受けて「普段友達とは話せない内容だが、興味があることは良いテーマではないのか? 例えば、孤独など」、「深い話はトラウマが絡んだりするので、話すことにリスクを感じてしまい発言を躊躇ってしまう」、「内容が深まりはするが、それはよいテーマといえるのか?」、「集団カウンセリングになるようなテーマなら良いのでは?」と、いかに内容を深めるかという話の流れになってきたところで、「《観光》がテーマの時には深まらなかったが、楽しかったので良かった」と、少し流れの違う意見が出されました。
これに対して「満足感があり楽しければ良いのか?」、「反感や共感できないこと、不快感などが掘り起こされるものがあれば楽しくなくても良いのでは?」、「違和感や不快感を持ち帰り、考え続けることは良いことではないのか」などと、楽しくない内容でもよいのではないかという意見が多くなったところで、それを吟味するように「では、不快を通り越して強度のトラウマを抱えるような内容でも良いのか? 例えばISの殺人映像など一般に公開されないようなショッキングなことはどこまでが許容されるのか?」という問題提起がなされました。
これに対しは「なごテツのローカル・ルールとして規制すればよいのではないか」、「規制するのは良いと思うが、タブーを排除してしまうことは良いのか?」、「ただし無法地帯にしてはならないと思う」、「哲学はなんでもありだと思う。しかし、哲学カフェとしてはNGのものはある」、「自分の弱さにより受け入れられないものは、自分の問題として考えればよいのでは?」、「制限はしたくないが、ルールは必要なのではないか」、「そのルールを決めるのは誰か」など、極端なものは受け入れがたいとの意見も出てきて、「孤独などマイナスなものは避ける。例えば、不幸はマイナスな言葉だが、幸福をテーマにすれば不幸についても考えられる」、「色々な方向から見るのが哲学カフェなのだから、テーマは表裏がセットになるので、話し合いたいことの反対の言葉でも問題ない」との意見もありました。
また、内容の深まりについては、「深まる方向に行かなくても良いのでは?」、「色々な視点での意見が沢山でてくるならば、深くなくても学びにはなるのでは?」、「不快なテーマでも、不快にならないように話し合って癒しになれば良いのでは?」、「哲学カフェはカウンセリングではない」などと続きました。
さらに、問い自体が問うている人たちの倫理観を疑うようなものとして、「トロッコ問題のように、線路を進むトロッコで真っすぐ進むと5人を撥ねてしまう、右に曲がれば1人を撥ねるだけで済むというような倫理的には許されない2択はよいのか?」という問題提起がなされました。
これに対しては「哲学は知を愛すること。哲学カフェには知識を求めて参加しているのではなく、他人がどんなことを考えているのか意見を聞くために参加している。参加してテンションが上がらないようなテーマは良くない。テンションが上がるようなテーマがよいテーマだと思う」、「哲学カフェの参加の仕方には2種類あり、1つは効果や効用を求める参加、もう1つはなにも求めず知的欲求を満足させることを求める参加の仕方ではないのか」などと続いていきました。
また「思っていることをズバズバ言えないようなテーマは良くない、《不細工》などがテーマであったとして思っていることを発言してしまうと人間性を疑われてしまうと考えて奥歯に物が挟まったようなハッキリとしない発言になるテーマはよくないのではないか」という発言に対しては、場のセイフティーという観点から「安心・安全が確保されるようなテーマでなければならない」、「いや。安心・安全はテーマで確保されることではない。それは哲学カフェが安心・安全を確保される場でなければいけないのであって、テーマに良い悪いなどないのではないか?」などと進み、「タブーな内容のテーマは面白いとおもう」という意見に対しては、「タブーな内容ではなくタブーに近い話が面白いのではないか?」とタブーとの関係が示されました。
参加者の興味との関係については「どんな内容でも参加者の意見を聞けることが面白い」、「興味がないテーマが面白いのではないか。自分と距離があるので発言しやすいと思うので」と興味を引かないテーマを肯定的に捉える意見が出ましたが、「以前に参加したテーマは哲学的に追及する意味を感じられず、参加しなかった」という話や、「では、みんなに関心がないテーマが良いのか?」、「興味のないテーマは参加者が集まらないのではないか」そんな指摘もありました。
さらに参加者の感情との関係については「感情を外して考えられるので良いと思います」などと話は進みましたが、「理論で感情を納得させることができるのか?」「感情を外して考えることなどできないのだから、無理なのでは?」などの指摘もありました。
最後の方では「主催者が考えて判断すれば良いのではないか」「テーマの基準を決めるべきなのか?」などという発言もあり、進行役に方針を発言するように求める一幕もありました。
その他にも諸々の話も出され、盛り上がるものの、いつものように答えには辿りつくことはできませんでした。
当然の流れですが<具体的にどんなテーマが良いのか?>も出てきました。「自分が行きたくなるテーマはよいテーマなのか?」、「安心して参加しようと思えるテーマはよいとテーマといえるのか?」などなど。
まだまだ、話は尽きませんでしたが、「参加者の人にも、ぜひテーマを考えてみてもらえませんか」ということで締めとなりましたので、続きはWeb「参加者からのご投稿」でお願い致します!
(作成: なごテツ世話人 高橋秀和/井下賢一)
[ご説明] 哲学カフェでのやりとりを多くの皆さまと共有する場として開設します。
イベント終了後2週間程度を目安に、参加者の皆さまからのご投稿を募集します。
当日の感想や、後で気づいたことなどを気軽にお寄せください。
参加者同士のさらなる対話の場としてもご活用ください。
[ご注意] 「ホームページ」欄は、ご記入なしで構いません。
「名前」は匿名や変名でも構いません。(後で変更はできませんので、ご注意ください!)
ご投稿はなごテツが発行および許諾した印刷物や電子媒体で複製・転載する場合があります。
あらかじめ、ご了承の上、ご投稿をお願いします。
哲学カフェ終了後、約2週間が経過しましたので、ご投稿の受け付けを終了いたしました。
今回も多数のご投稿をいただき、大変ありがとうございました。
Mn3 (日曜日, 07 8月 2016)
よいテーマを見つけようとすると、抱える矛盾に突き当たるようです。
誰も傷つけないようにしようとすると、当たり障りのない退屈なものになるおそれがあります。
かと言って、常識を根底から揺さぶるようなものは、面白みはあっても多くの人から白眼視されるでしょう。
その中間を狙うのが無難でしょうか?言うのは簡単ですが実際、毎回テーマを決められる方には頭が下がります。
なぜ挨拶は重要なのか?AI同士が交わる未来でも挨拶の重要性は変わらないのか?ちょと弱いでしょうか。
今でも「アインシュタインは間違っていた」というようなタイトルの本が出版されるくらい、時間や空間が伸び縮みするのでは?という主張はインパクトがありました。物理と哲学の違いはありますが後世にまで反撥のあるような主張は意義がありそうです。
今回のカフェで後半に「どんなテーマでもタブーはつくらないのが哲学だ」のような発言がありました。
「哲学は論理に従って考えられるものだ」とも。
その時わたしは哲学というものが分からなくなりました。哲学は人間の感情抜きでは考えられないのではとの思いが頭をかすめるからです。
いまから30年ぐらい昔の日本での話です。輸血をしないと生命に拘わる少年、の親が自分も子供もとある宗教の信者で輸血は教義に反する、と輸血を拒みました。結果、少年は亡くなりました。
医者としては親権を最優先させるのが「正解」だったのだろうか。その医者も「とにかく命は助けたい」と誰よりも強く願ったでしょう。哲学、医療倫理は当時の判断を、こういうと語弊があるかもしれませんが殉教を最善と判断したのでしょうか。
このケースの場合も、もし輸血で生き延びたとしても教義に反して生き延びた、という苦悩が少年の未来を苦しめてゆくかもしれない。その感情の大きさも、勿論、医療倫理も充分熟慮してでのことだったと思う。これが不謹慎だがAI同士が、故障ー修理という、感情が入らなければ下せる判断との一番大きな違いだろうと思う。
感情のファクターをどの程度考慮してもいいのか、或いはするべきか?前々回でのカフェのように、いつ、誰の側から見て、どういう目的で(価値判断)、どのような思考過程を当事者はするのか、を考慮して示されるのが哲学ならば、人の数だけ哲学が生じてしまう。これは学問(普遍化できるもの)なのだろうか、と。
まとめると、今現在突き当たったのは以下のような図式です。本当は個人を中心として同心円で4重円を描きたかったのですが。(自然界が一番外側で)
「自然界」→「文化」→「快ー不快界」→「個人」
長文失礼致しました。
からす (月曜日, 08 8月 2016 13:39)
以前参加した「観光」がテーマのときに面白いと感じたのはなぜか?
色々な視点から意見が出て自分にはない視点が楽しかった
楽しいだけならば哲学カフェでなくてもよいとの意見を受けましたが
空気を読んで意見に同調するだけのノリの楽しさと
自分にはなかった視点の意見に素直に感嘆できる楽しさは
同じようでいて異なる要素が多くあります
観光をする側と受け入れる側、観光地の住人、職業としての観光
観光と意識していない通行人、観光に反対する人
どの立場から見るのかで発言はクルクル変わっていくのですが
自分の意見に拘りがないので反論されることが楽しめる
反対意見を楽しいと思える経験はとても貴重です
観光に踏み込んで行けばスローフード運動やダークツーリズムなど
人生を左右するような存在もたくさんあります。
とはいえテーマを見た時には興味がないので参加は止めようと思っていました
期待していなかったのに面白かったというのを喜ぶ自分の反応も面白い
では興味がないテーマなら面白いのか?
これには同意しかねるところがあります
観光は積極的には興味がないが身近で参加したことがあるもの
接点がなかった内容を楽しめるかどうかは検証が必要です
これに対して「自由とは?」など身近な精神性がテーマであれば
譲れないことが地雷原のように心の中に広がり
感情が理論的偽装を身にまとって構造的であるかのように振る舞い
自分の正義を貫くために理論を置き去りにした混戦となってしまう
もちろん感情に囚われなければ問題はないのでしょうが・・・
からす (水曜日, 10 8月 2016 09:39)
哲学カフェにおいてテーマはあまり重要ではなく
参加者の質と進行役の力量こそが重要である
そんなニュアンスの発言があったと思います。
同意するところも多くありますが疑問も感じます。
「モテるヘアースタイルとは?」と「薄毛について」
参加者の層がかなり変わりそうな気がします。
たぶん話される内容も変わる気がします。
テーマは重要なことだと思います。
などと書いてみるとますます違和感が広がってくる
どちらに参加した場合でも満足する人と不満な人が出る
どちらがよいテーマだったかは参加者次第
それとも多数決?
主催者の好みに合う方?
なごテツらしい方?
常連が満足した方?それとも初回参加者が満足した方?
あれ?やっぱりテーマは関係ない?
?
Mn3 (水曜日, 10 8月 2016 21:35)
テーマに直接コミットしないのですが、記録にある
「理論で感情を納得させることができるのか?」にずっと引っかかっているので、同じような人が、いらっしゃれば……。以下のように考えました。
人間は快を選び、不快を避ける。人間は予測し、現在の不快も、将来の快のためには耐えねばならないことも知っている。
しかし、将来の快の為の、現在の甚大な不快には躊躇する。
なぜなら、人間は予測はするが、実際は神様だけが正確に将来を予測できると知っているから。言葉を変えて言うと、私たち人間の予測には、当たる当たらないが、存在すると知っているということ。
つまり、将来を今現在の自分の行動に賭けるのである。
この「賭け」が存在する限り、人間の 快→不快 : 不快→快という予測は絶対ではない、とも知っている。
ただ、この予測の確信が弱い強い、によって感情的な人、理性的な人が生じるだけだ。
「賭け」に負けるであろうと思われるやり方を、ひとは感情的と呼び、「賭け」に勝つであろうやり方を、ひとは理性的だと称するのだろう。
しかし、ここに一つ問題がある。宝くじは買わねば絶対に当たらない、という事実だ。
宝くじを買って大金持ちになろう、というのは極めて成就する可能性が低い、殆ど0といっても良い。
だが買わねば、宝くじに当たる確率は文字通り0である。
果たして、この状況で「賭け」に勝つには?
ところが、人生にはこのケースが時おり生じる。更に、現在の持ち金をすべて投入して勝ち目のない勝負に出ることが。
他人は感情的な「賭け」だと見なすだろうが、神様だけは一言「よくやった」と褒めてくれるだろう。
からす (木曜日, 11 8月 2016 10:26)
深く心を揺さぶるような哲学カフェはよいのでは?
これも同意できるところとできない部分がある意見でした。
ひとは過去の経験からトラウマを抱えていて
それを表に出すと制御が困難な感情が伴う
見ている人も同じような経験を抱えているので共感がおきる
集団カウンセリングなどではよくある風景だと思います
共感による感動をグループに発生させることは技術論で可能
誘導することが可能なテクニックは存在します
依存症も高いのでビジネスとしても継続可能です
癒しを求めるカウンセリングはお金を払えば手に入ります
癒し以外の感情も基本的には同じように取り扱うことができ
YouTubeに殺人映像を流すISなども求人の成功事例といえます
感情を大きく揺さぶれば相手を支配できる
もちろん自然再生した場合には
止める気も否定する気もありません
そのまま巻き込まれながら観察します
しかし哲学カフェの目指すべき方向ではないと思います
からす (木曜日, 11 8月 2016 18:41)
科学的なテーマはどうなのだろう?
アインシュタインの相対性理論とは?
知らないことは議論できない・・・
知識の量と質があまりに大きいと先生と生徒の関係になるのかも
それは哲学カフェの目指すものではないと思うので
勝手に省略して特殊な環境では時間の流れが違う
ソースを確認していませんが本人が言ったらしい説明に
ストーブの上に座った10秒と美女の膝の上に座った10秒は同じ10秒?
といったようなことがあります
時間の流れがその時の心の状態で長かったり短かったりすることは
誰でも感じたことがあるかと思います
「同じ時間を長く感じたり短く感じるのはなぜ?」
これならばハンディなしで発言できそうです
では「よいテーマ」なのか?
私は興味あるテーマなのですが・・・
Mn3 (木曜日, 11 8月 2016 20:47)
#6 からすさん
おもしろいですね。
まいう~。「同じ時間を長く感じたり短く感じるのはなぜ?」というのは落としどころが、うまい!
物理界では絶対というのは、ほぼ駆逐された概念ですが、本当にみな相対的なのか?
絶対というものは物理界には、いや世界には存在しないのか?
存在するとすれば、どんな条件下で言えるのか。
本当に私が楽しいと感じてる時、私以外の皆が口裏をあわせ全ての時計をはやく進めてしまったとする。私ひとりが「皆んながズルした、私のほうが正しいんだ!」と叫ぶ。
多勢に無勢。常識的にそんなはずがない。私が正しいのをどうやって証明するのか?
常識を疑うのが、ある意味、哲学。
常識とは?絶対とも違うが相対よりも絶対に近い。
昔のひとは「そう疑っている、わたしの存在は疑えない」と言ったが、
存在とはどういう意味なのか?わたしの存在は絶対なのか?物理界では評判の悪い「絶対」を持ち出せるのか?
宇宙は無から生まれた、.とよく言われる。無が存在したのか?無すら存在できなかったのではないのか?存在を言うのであればその前に存在している観察者の存在が必要ではないか?ではその存在者の存在は誰が担保するのか?ではその……(以下無限後退)。
ここを、「物理といえども、まあ常識的に考えて……」
などど言っていたら厳密科学を自認する物理学もしょせん「だいたい物理学」になってしまう。
それは仕方がないことなのか?
ん?
クルト・ゲーデルの不完全性定理?
とは違うよね。
数学に近づいたらあぶない。私のエセ物理学の知識では誤魔化せない。お跡がよろしいようで。
からす (日曜日, 14 8月 2016 10:53)
宇宙誕生
ビッグバンの説明をテレビで見ている時に流れている効果音
ゴゴゴゴ・・・みたいな音なのですが
真空なので音はしないのでは?
いやいやそもそも真空も存在していない
ではなんらかの衝撃波はあったのか?
あったのかもしれないけれど宇宙が広がっていく訳なので
その観察者はすごい勢いで遠ざかっているはず
観察者に届くのであれば観察者はこの宇宙の中に入ってしまう
宇宙誕生以前が今の宇宙と混ざってしまう
混ざることはないのだろうから
観察者になんらかの情報が届くことはないのだろう
宇宙が生まれる前に何かが存在していたとしても
宇宙が広がるのと同じ速度で観察者が遠ざかるなら
なにも届かないので観察できない
むこうにこちらのことが届かないのなら
逆もまた同じでこちらもむこうを観察できない
観察できないものは科学ではないので
「宗教と哲学の担当区分になる」のかな?
では「よいテーマ」になりえるのか?
面白そうですが議論が深まるのか不安が残ります
Mn3 (日曜日, 14 8月 2016 20:03)
宇宙が針の先よりも小さかった頃、今現在の宇宙の全質量が集中していたんだから、どんだけ重いんだ?と思った。
が、その頃(ビッグバンが起きて間もない頃)はまだ質量が生まれてなかったんだろう。
しかし、質量の由来はどこから来て、質量保存の法則はいつごろ出来たんだろう?
考えるに今現在の物理学の知識が欠けてる(?)ところから来るこういった疑問も考えてゆけば、それなりに楽しい(?)
ちなみにダークマターとかいうものは宇宙の質量の7割以上を占めているらしい。そいつが異次元に存在するのだが、何故か重力だけは私たちの次元、つまりこの宇宙に影響を及ぼしてる、という説があるらしい。
ならば異次元から重力だけを使って(観測して)私たちの宇宙のビッグバンを捉えることはできなかったのだろうか?(もちろん異次元側の住人が)
と、ファンタジーの世界で遊ぶのも一興(?)
科学と空想と哲学の違いなど、より原理的なほうに興味も移ってゆくが。
実験できない科学(?)は宇宙論とか進化論とか、~論と呼ばれてしまうようだけど。
もちろん哲学は物理学に大きな影響を与え、その逆もしかり、なのでどちらがどう、というわけではないが。物理の守備範囲と哲学のテリトリーの境界に想いを馳せるとき、個人的にはちょとエキサイティング。
ところで、ついでに超能力について皆さんは、哲学はどう考えていますか?
なんか興味本位のテーマに見えるかもしれないけど、真剣に考えると奥が深いかも。超能力というと、当たり前だが生命体が使うもの。超能力と呼ばなくとも、そこで日常的に生命体は必然的に物質界にイレギュラーに作用し続けているだろうが。
生命体が存在しなければ時空は存在しない、と言い張る物理学者もいるようです。