■ 日 時: 2016年4月9日(土) 13:00~15:00
場 所: カフェ・サンラファエル
(名古屋市西区名駅2-11-8 ファーストビル大樹1階)
テーマ: 「挑戦する」とは?
進 行: 井下賢一
参加費: 飲食代実費(440円~)
定 員: 13名
申 込: なるべく事前にお申込みください。
(定員に達し次第、締め切ります。お申込みがない方は席に余裕がある範囲で先着順でお受けします。)
申込先: staff☆nagotetsu.sakura.ne.jp または ishita☆cafephilo.jp(☆を@に変換してください。)
共 催: カフェフィロ
備 考: ① 100円程度のご寄付をお願いしています。(強制ではありません。)
② 写真撮影と対話の録音をさせて頂いております。NGの方はお申し出ください。
《ご案内》
新年度を迎えて、何かと新しいことに取り組むことが多いこの季節。挑戦する気持ちが自然に湧くこともあれば、自分や周囲から求められたりすることもあります。潜在的な能力を引き出して、活力を生み、成長の原動力となることがありますが、なかなかその気持ちを持てないこともよくあります。
新たな活動のスタートとなる今回は「挑戦する」について皆様とともに考えていきたいと思っています。
初めての方も歓迎です。どうぞお気軽にご参加ください。
―開催報告―
なごテツ 第1回 哲学カフェ 「挑戦する」とは?
日時: 2016年4月9日(土) 13:00~15:00
会場: カフェ・サンラファエル(名古屋駅東口)
進行役: 井下賢一 参加者: 14名
今日のお題は「挑戦する」とは? です。
今回、いままで@名古屋として皆さんに楽しんでいただいた哲学カフェも「なごテツ」として出発する第一回目ですので、ちょっとスタッフも気合いが入っています。
さて、最初に進行役からの哲学カフェのお約束についての説明があると、ちょっとした沈黙のあとで最初の発言。
挑戦するって自然現象と同じで自然に湧いてくるものではないでしょうか? つまり、他からの要因によって起こるものではないかとのこと。これに対し、自分がこうなりたいこうしたいという目的ができることによって、その差を埋めるために挑戦するのだという意見が出ます。
また、挑戦にも種類があるのではないか。例えば、受験勉強のようにやることがわかっていて後はそれに向かって努力していくタイプの挑戦と、起業のようにやり方がはっきりしていなくて道を切り開いていくような挑戦。
また、挑戦することには好奇心も入るのでないか、そして、好奇心は他からの働きかけで触発されるのでは。
挑戦する心はどこから来るのか。本人とは別のところから。自分に欠如しているものを埋めようとするから。余裕があるから。退屈だから。というように話が続いていきます。
それに対して、では、余裕を作るにはどうするのか、という方向に話は流れていきます。
選択枝を捨てる。つまり、やることを絞ることが必要という意見が出ると、私はこの哲学カフェに参加するために家事を圧縮してこなしてやってきたとの意見。時間を工面して挑戦するということ。忙しくても挑戦している人はいるということで、どうも余裕があるから挑戦するということではないようです。
ここで、再び挑戦するとは、に話は戻ります。
まだ発揮されていない自分の自己実現ではないかという発言に対し、外的な物理法則のような力が働いているのではという発言から、その力とは欲望であると発言がありました。(その後、世界は欲望で成り立っている?も)欲望だけではなく理性もあるとの発言も。
その後、動物は挑戦しているのか(縄張りの拡大、メスの獲得)、挑戦はよいことなのか(結果として何もしない方がよかったと言うこともある)
また、積極性がなければ挑戦ではないのか、というような発言の後で、挑戦している人は挑戦と思っているのかという素朴な疑問が出ました。つまり、挑戦する人というのは自分がそうしたいからやっているだけであって、本人からしてみるとやりたいことをやっているだけで、それを外から見ると挑戦と見えたり、自分もあとから振り返ってみるとあのときの自分の力量からすると挑戦だったというようにおもうものなのでは、という意見です。
その流れで、アメリカの話で、白人専用の席に座った黒人の話が出ます。これは挑戦なのか、肯定的な意見に対して、社会的に立ち向かうことと挑戦は違うのではないか等、幾つかの発言がでました。
ここで今日の哲学カフェは時間切れ。
「挑戦する」とは? というお題から様々な方向に話が弾み展開されていったひとときでした。
(作成: なごテツ世話人 荒井豊)
-世話人の呟き-
【報告】昨日(4/9土)名古屋駅東口のカフェ・サンラファエルさんにて、なごテツ第1回哲学カフェ「『挑戦する』とは?」を開催しました。哲学カフェが初めてという4名の方を含め14名で、ともに考えていきました。名古屋近郊だけでなく長野や石川など遠方からもお越しいただけ大変驚きました。
— いした (@Ishita_tkn) 2016年4月10日
前半は主に「挑戦する」気持ちがどのようにして生じるのか、という点について、後半は主に「挑戦する」ということはどういうことなのか、という点について、ともに考えていきました。
— いした (@Ishita_tkn) 2016年4月10日
参加者の皆様から1,940円ものご寄付をいただきました。
— いした (@Ishita_tkn) 2016年4月10日
配付資料などの複写費や活動運営費などに充てさせていただき、一部は哲学カフェ活動発展のためにも使わせていただきたいと思っています。https://t.co/6ieZDdHU7Q
今回、新たな哲学カフェ≪なごテツ≫を立ち上げるに当たって、多くの方たちから、陰に陽に、お力添えを頂き、大変感謝しております。歩き始めたばかりの哲学カフェですが、皆様にはこれからも暖かいご支援とご協力をいただけますことを切に願っています。今後ともどうぞよろしくお願い致します。
— いした (@Ishita_tkn) 2016年4月10日
[ご説明] 哲学カフェでのやりとりを多くの皆さまと共有する場として開設します。
イベント終了後2週間程度を目安に、参加者の皆さまからのご投稿を募集します。
当日の感想や、後で気づいたことなどを気軽にお寄せください。
参加者同士のさらなる対話の場としてもご活用ください。
[ご注意] 「ホームページ」欄は、ご記入なしで構いません。
「名前」は匿名や変名でも構いません。(後で変更はできませんので、ご注意ください!)
ご投稿はなごテツが発行および許諾した印刷物や電子媒体で複製・転載する場合があります。
あらかじめ、ご了承の上、ご投稿をお願いします。
哲学カフェ終了後、約2週間が経過しましたので、ご投稿の受け付けを終了いたしました。
ご投稿、大変ありがとうございました。
からす (火曜日, 12 4月 2016 13:53)
「挑戦する」ことへの対話の中で
他人からの評価が必要とする前提条件が見え隠れしていることに
とても興味を抱きました
自分が行っている(行おうとしている)ことが挑戦かどうかを
他人に評価してもらう必要があるのか?
人が認めなかったならば挑戦は挑戦ではなくなってしまうのか?
人が認めないことを行うことは挑戦といえるとおもう・・・
なにやら矛盾が湧いてくることではあるが
私の中で挑戦と判断したことは人がどう思おうと挑戦である
割り込ませるほどの話題でもないかと
ここに記してみます
他の方がどう判断するかについては興味がありますので
反応があれば嬉しいです
KUMIKO (水曜日, 20 4月 2016 14:29)
対話を進める中ででてきた欠如という言葉がとても気になりました。
挑戦するとは何かしらの欠如を埋める事なのでしょうか。欠如とは、私がまだ知らない私の可能性。その欠落埋めること。
だからきっと際限ないはずですねそれに取り組もうと思うと。
挑戦する事が他人の評価の前提の中で、成功と取られようが失敗と取られようが、失敗自体も全て引き受ける覚悟で新しい世界と言いますか、次のプロセスに望む事が挑戦ではないかと。今のところ。
言葉が言葉をよんで、またその解釈もみんなそれぞれで、だからまたまた深い言葉の谷にわけいって。楽しいな‼️
96B (月曜日, 25 4月 2016 01:47)
「挑戦する」ことに他者の評価は必要なのか?
哲学カフェの中でも触れられていた興味深い問いで、私も考えてみたいと思っていました。
この問いに対する答えは、何のための挑戦なのか、その目的によるのではないでしょうか。
「挑戦する」こと、それ自体に価値を置き、そのために「挑戦する」のであれば、他者の評価は不要でしょう。
ですが、他者の評価がなければ得られないようなものを求めて「挑戦する」のであれば、必然的に必要となると思います。
例えば、他者の評価がなければ得られないようなものには、報酬(例えば、金銭などの物質的な報酬や、賞賛や名誉、地位向上などの社会的な報酬など)や、バスに乗った黒人女性の話で気づかされましたが、社会変革というものもあると思いました。
そこから、欠如には、個人としてのものだけでなく、集団としてのものもあるように思いました。
「挑戦する」こと自体に意味があるのか、それとも、その目指すものに意味があるのか。
からすさんとKUMIKOさんのコメントに触発されて、この点について、さらに考えてみたいと思いました。